勉強は役に立たない

 かの天才フリードリヒ・ガウスは、こんな言葉を残したという。

『知識ではなく学ぶという行為こそが、至上の喜びを与えてくれる』

 


 近年、と言ってもさほど近年に限ることでもないが、「勉強は役に立たない」という概念がよく提唱される。

 それに対する反応は好悪あれど、しかし丸っきり批判されることはない。何故か。

 事実として、勉強は役に立たないからだ。


 例えば小学校の算数時点で、三角形の面積なんぞを求めさせられるが、そんなものを将来使う予定は大抵の人にとって無いだろう。

 かく言う自分自身としても、中学理科で習った地学の知識を使う場面は今後訪れないと考えている。


 勉強は役に立たない。

 少なくとも現代社会で、学校のお勉強を知識として所持することはあまりにつまらない。

 ただ、それに至る過程はどうだろう。

 


 勉学にせよ何にせよ『それに集中して取り組む』という意味合いで「浸かる」という表現をされることは多々あるが、実のところこれは非常に良い表現なのだ。

 浸かる。まさしく学徒たちは、勉学という海に浸かっているのである。

 そしてそれはどこか、子が母の胎に包まれることにすら似ている。


 勉学というのには様々な定義があるだろうが、間違いなく言えるのは、勉学それ自体が目的を持っている。

 数学なら概念を組み立てることであり、理学なら世界を解き明かすことである。

 そしてそれに浸る人間は、ただその目的に従えば良い。逆に言えば、それに従えない人間は学問が出来ない。

 いわば一つの意思を持った体としての学問に、我々は運命諸共全て任せて、どこまでも広がる海面上をずうっと漂っている。

 我々は、勉学に抱かれている。


 もう少し議論を進めると、この母胎への回帰とでも言うべき行為は、大地への回帰とも読み替えたい。

 人は学問に浸かることで、野生を取り戻すのだ。

 矛盾していると思うだろうか? だがそれは、学問に対する先入観のためだろう。

 確かに勉強すればするほど、論理性や思考力といった人間的な力が身につくのやもしれない。しかしそれは、結果だ。

 その過程にあるものは、つまり論理を扱う力を得るために行う訓練は、既に存在する偉大な法に身を任せて揺蕩う、いわば帰依だ。

 学問の海に身を包まれる瞬間、私は一動物として論理を追い、論理に喰われ、論理を喰う。何故かだなんて理由も必要ない。そこでは、そうするものなのである。


 なので、論理なるものは動物である人間が人間である証左であって、そしてそういう意味合いで論理を追及する学問は社会で役に立たない。

 社会の中で、人間は人間であって、動物では決して無いのだから。

アンレス・テルミナリア 感想やら

Whirlpoolより3月25日に発売された『アンレス・テルミナリア』。約二ヶ月後の今日、やっとのことで読了しました。

もちろん本作、読み終えるのに月単位の時間が必要なほど、難解な作品ではありません。むしろ読みやすいぐらい。なのに何故こんな時間がかかったのか?

 

やる気はあったんです。時間がなかっただけで……。

 

まぁそんな話はこの際どうでも良いでしょう。

ただ、全て読み切るのにある程度の期間を費やし、さらに一回通して読んだだけである、という点はご了承ください。

ではでは、早速感想をば。各キャラについて綴っていきたいと思います。

 

 

1 御厨恋

超安定のメインヒロインですね。

ズバリ一言で表せば

淫乱だなんだ言われますが、否定はできないかなぁ……。

しかし、それだけ強烈なキャラクター性があったからこそ、この物語のメインヒロインになったとも。怒涛に続くシリアス展開を軽く吹き飛ばしてくれます。

 

とはいえもちろん恋ルートやトゥルーでは、彼女自身が悩むことになるわけで。

そんな中で彼女というキャラクターは、いわゆる『優しい子』とは全く異なることが分かります。

祈にはとことん近づいて行くくせに、自分の問題となると一人で抱え込んでしまって、でもそれでいながら笑顔を浮かべることさえある。ズルい子だなぁと思いますし、そんなズルさが許されるのはメインヒロインの特権でしょう。

 

 

可愛いところは、主人公に好かれ始めると逆に照れ照れしてしまう部分。うぶー!



2 りな(来栖莉々奈)

友達だからね。

彼女の決め台詞みたいなところもあるこの言葉。『だからね』辺りの発音がやや舌ったらずでめっちゃ可愛いんです。

そんな彼女は、言葉通り一番の友達として、とてもとても有能なキャラでした。

特にトゥルーで祈と恋を本の世界へ連れて行くとき。ライターここドヤ顔してるんだろうなぁと思わせるぐらいの演出でしたが、大正解です。思わず「りなぁぁ!」とガッツポーズするぐらいです。

 

しかし共通パートなんかでは、そんな親友的活躍を見せる場面もなかったかな?

というのは、彼女の出てくるシーンの多くが、おそらく朝の目覚めと日記の確認なんですよね。特に日中だと例の廃屋でのんびりしていますから、恋の起こすイザコザにはやや巻き込まれづらい立場なのです。

そのためか、むしろ猫みたいな彼女の魅力が全面的に押し出されていました。甘えてくるところとか、それはそれで可愛かったけれども。

 

さて、そんな彼女ですが、礼誕祭で役割を貰ったあたりのテンションもまた、大変可愛らしかったです。

ちょっと声を高くして演じられているのが面白くて良きかな。

 

3 橘シャロン

あらゆる意味で可哀想な目に遭うのがこの子。

メディチックな呆れ顔が恐らく一番似合うキャラ。

アンレス・テルミナリアの公式HPにて、最初に各キャラクターとその概要を確認したとき、「あぁこの子がツッコミかぁ」と分かるぐらいには露骨なキャラクターをしております。もちろん多少ボケたり祈を弄ったりすることもありますが、結局常識キャラに落ち着いた感じがしますね。

 

そして、そういうキャラは大抵、「クールの中に隠した熱血さ」みたいな魅力をもつものですが、彼女も御多分に洩れず。どころかまさしくその通りのキャラで、シャロルート・トゥルーどちらにおいても、彼女の背負う運命と活躍は涙なしに見られません。

シャロは本当に強い子でした。生意気な後輩ちゃんがかなり可愛く見えるぐらいには。

 

彼女の可愛いところは少し悩むんですが、ここはオカルト部でワチャワチャされた後の膨れシャロを推しておきます。

妹要素? それはちょっとよく分かんないかな。

 

4 ルチア=ヴァリニャーノ

可愛い。ちっこい。

でも重い!!!!!

愚かな僕は

「ヴァリニャーノ教どうやって復興するのかな? 実は学園長がめっちゃ良い人で、正しい信仰活動の手引きしてくれるのかな?」

とか思ってました。いや、結局これもこれで多少正しくはあったわけですが。

……ぶっちゃけ、ルチアが洗脳されてましたって辺りで、展開に軽く引きましたね。コメディだと思ってたものがドスンとシリアスに引き戻されたところはあります。

 

そんなわけでルチアルートはなかなかハードなところもありますけれど、彼女の魅力はそれを乗り越える強さだけに留まりません。

さすが教祖、あるいは先輩、彼女は誰に対しても優しく慈悲深く接するのです。例えばあの黒屋に対してまで。ルチアが彼をクロと呼んで慕っていく様は、なかなかどうして心がほっこりする場面であります。

他にも、傷心中の恋を気遣ってあげたり、トゥルーでは記憶を消されながらも祈のことを信じてくれたり。偉い!

 

そんな彼女の可愛いところは、色々ありますが、「頭を撫でるな!」という言葉にしておきましょう。というのも彼女の発言一つ一つ、どうにも言い方が可愛らしくてですね……。

 

5 学園長

ここからはサブキャラなので、軽く控えめに。

本編中かなり正体が隠され続けてきた彼女ですが、なんだかんだで普段から素ではあったのでしょうかね。鼻歌を奏でる姿はなんともキュートです。

 

6 黒屋

お母さんです。

トゥルーにて株が急上昇していく様は面白ささえありましたが、背負う運命にはなかなか悲しいところも多く。

良いキャラしてますよ。

 

7 イノリ

徹底的に「何やねんこいつ」と思わせる天才。

学園長にせよイノリにせよ、もしかして天使って口下手な存在なのですかね?

頼れる場面もあったので、言うほどの毛嫌いもしてませんが。でも体の傷とかもっと労ってあげて。

 

8 ポチ川先生

ワンちゃん。この作品では猫の方が強かった。

結局なんで学園長の犬だったんだろう? 特に理由もないのであればそれで良いんですが、何かしらの意味合いを感じて気になるところ。

新世界だと大学病院の先生に。優秀だ。

 

9 神様

最後に、触れておきたかったこのキャラ。

はっきり言いましょう。お前ろくでもないな!!!

物語の初めの方、共通パートなんかでも「神様は残酷」という言葉が出てきます。ただその時点では、まだ決まり文句の域を出ません。

露骨に神様へため息をつき始めるのは、ルチアルートですね(一応[恋→シャロン→ルチア→りな]の順で回ったことだけ付け足しておきます)。

ルチアから父・オレグへのギフト貸与に関わる多くの代償、加えてオレグがその約束を破った結果消滅したということについては、まぁ仕方ない部分でしょう。そもそもあの信徒がー云々みたいな話もありますし。

ところが問題はその後。ルチアから徹底的な罵詈雑言を受けた神様は、オレグを、父としての記憶がない状態で復活させました。何ならルチアたちの記憶の方も消しました。

 

え、なんで????

 

いっそ復活させないなら分かるんです。厳しい判断ではあるけれど、まぁでもルールを破ったのはオレグですし。ルチアが辛さを乗り越える展開も予想はできます。

あるいはパパの完全なる復活。神の慈悲ってやつですか。誰しもに起こりうる悲劇とはいえ、その原因を作り出したのは神のギフトとも言えますから、責任を取るといった意味合いで完全復活させれば、神様スゲー!な展開ですね。

 

で、今回はその間。

いや間どころか、そもそも問題自体が無かったことにしてしまいました。

 

唯一その、記憶のリセットの前後を観察できた学園長も言っています。

「君はお人形遊びをしているのかい?」

と。何か自分にとって不都合なことが起こった場合、その問題がなかったことになるようリセットする。まさしくゲーム感覚ですね。

 

この悪行はルチアルートに留まらず、トゥルーでも同じことをやりました。しかもトゥルーだと結局祈たちに暴かれ、挙句の果てにはその姿を顕現させて説得しようとしてました。

ルチアルートで信徒Aに『汝に信仰を禁ずる』とか言ってたの普通にカッコよかったのに、今にして思い返すと「小物のイキリ」にしか見えなくなってきちゃうのは……何ともかんとも。

 

そういう訳でかなりアレな存在の神様ですが、ただ一点。

あの世界ではあらゆる事象の根源に神様がいて、どんなにクソ喰らえな出来事も「神様サイテー!」で済んでしまうんですよね。なので神様がある種の必要悪みたいな存在になってしまい、事あるごとに「おのれ神様!」と叫ばれても仕方ない立場に彼はいるんです。

祈たちの創造した新世界では神様がいなくなり、現代で言うところの信仰の自由的なものが作られることになると思いますが、不可避な「神様のせいにしたくなる現実」が現れた時に、じゃあ今度は果たしてどうするか……みたいな話が本作のオチに繋がるなぁ、と思いました。

 

色々言いましたが、何にせよここの神様はとかく悪い印象ばかりが募る、良いラスボスでした。キャラとしては嫌いじゃないよ。

 

10 総評

ここでは作品全体の印象について。

ストーリーはめっちゃ面白かったです。先にも述べた通り、二番目にシャロンのルートを読んでいて、それが良かったかなと。

当然これはシャロンの魅力を伝えるルートなんですが、同時にその世界の闇の深さ、神様の意地の悪さ、イノリや『獣』についての匂わせなどなど。得られた情報量は恐らく一番多いルートで、他のルートやトゥルーが楽しみになる話でした。

ルチアルートも割と同様の印象を受けます。あえて言えばパパ関連が完全にルチアのお話なので、より物語の深みにハマれるのはシャロンルートですかね。ただ少なくとも、ルチアをヒロインとしたお話で完結していました。

 

逆にりなルートは……うん。

そもそもりな、つまり莉々奈の正体を明かすためには祈の『審判者』なるギフトを明らかにしなければならないわけで。そこまでやるとトゥルーに片足突っ込んじゃうんですよね。

だから仕方ないと言えば仕方ないんでしょうが、初めて読んだときは、最後らへん全般的に謎でした。『お前のギフトが彼女を消したんだ』とか言われてもそのギフトが分かんねえしな……みたいな。

 

恋ルートはぶつ切りエンドでトゥルーに続くので、これに限って話すようなことはないんですが、いっそ恋ルートで祈の『審判者』まで出しても良かったのかな?とは思います。

もちろんそこが物語的には一番の山場ではありますが、いかんせんあらゆる原因に『審判者』が絡んでしまうので、個別ルートを読んでいる際「結局これは何でなの?」となる箇所が多いです。

 それこそ『審判者』の話を個別ルートで取り扱えるレベルにまで落とせたなら、りなルートがもっと分かりやすくなったはずですし。その辺りの掘り下げは少々不満の残るものではありました。


とはいえ、それだけひた隠しにしてきた分、やはりトゥルーは怒涛の展開と回収で総じて面白かったかなと。ルチアが視力失ってシャロが彼女を庇う辺りの重さもめっちゃ好きです。

あぁでも最初の時系列だけはちょっと分かりづらかったですかね。急にイノリの独白とヒロイン視点で始まるので、どこの話をしているのか少々時間を有しました。

 

それからこれは、話の面白さとはまた別な視点なんですが、ややキャラの推しが甘いなと感じました。

推し、というのはつまり、各ヒロインの可愛さです。

 

例えば、最近の風潮では、伏線回収をするような小説は非常にウケが良いですよね。これはまさしく「話の面白い」小説です。多分これって推理小説あるいは科学の発展に基づいた、「全体としての小説」の評価なんですよね。

もちろんその評価が間違っているとか言うつもりは無くて、それはそれで大事なポイントだと思います。実際そういう、伏線回収をバンバンやるような作品は見ていて面白いですから。

ただ一方で、美少女系のビジュアルノベルについてはもう一つ大事なことがあって、それが「キャラの推し」なんです。

 

小説とビジュアルノベルの露骨に違う点を挙げるとすれば、読者の意気込みです。

小説を買うとき、大体の人は「面白い話が読みたい!」と思うでしょう。それで結果的に可愛いキャラ格好いいキャラと出会うことこそあれ、初めから自分の好きなキャラを求めて小説に手を出す人はまぁなかなか見られません。

しかしビジュアルノベルであれば、「この娘可愛い!」となって買う人が普通に出てきます。あるいは話の面白さ目的で買っても、それと同じくらいキャラ目的で読んでいる人も出てくるでしょう。

だから小説とは違って、ビジュアルで見せたキャラの可愛さをより補完するようなエピソード作りが、ノベルの役割の一つなんです。


ではアンレス・テルミナリアに戻って、ルチアに注目してみましょう。

ルチアの外見をパッと見て得られる印象は、小さい子、まぁ端的に言えば『ロリ』です。するとこの作品を買う人の中には、『ロリ』の可愛さ目当ての人が出てくるわけですね。

そうした時に、これは本編中にも出てくる描写ですが、「ルチアはオムライスが好き」「でも玉ねぎは食べられない」みたいな情報をテキストで出すことで、彼女の『ロリ』なる魅力がより輝くのです。

ただもちろんルチアとして出したい可愛さはロリだけでなく、例えば『周りを気遣える』なんてところもあります。これは、描写としては「困っている人、傷ついている人の支えになってあげようとする」あたりが登場しましたが。

この辺りの描き込みが少し物足りなかったんですよね。というのが、推しが甘いと言ったところに繋がります。


間違いなくヒロインは四人とも、それぞれたくさんの魅力があって、そして文章の展開でもそれらを描こうとしているのが読み取れました。でも、自分的にはもっと欲しかった。

もっとガツガツした、「この娘可愛いですよね!」みたいな勢いが欲しかったなぁ、と思います。

最後に

というわけで結構長く感想のようなものを記しましたが、なんだかんだはありつつも良い作品だったなぁというか。各ルートでの熱い展開と伏線回収はかなり良い出来だったので、それで良いんじゃないかなぁと思います。

……別に適当言ってるわけじゃなくて、「足りない部分があっても良いからその魅力を十二分に出す」的な作品もまた評価できるってことですね。何だったらそっちの方が評価できるかもしれません。

あと個人的には、黒屋が積極的に関わってきたのもポイント高いです。親友ポジの男子にはウザいくらい話に関わってきてもらいたい派なので。

 

他の観点で行くと、人におすすめできる作品でもあるなって思います。何せ話が面白いので、万人にある程度の評価を受ける作品でしょう。Whirlpool絵は結構独特なんで、そこに問題がなければですが。

Whirlpoolといえば、僕は『初情スプリンクル』から当ブランドに触れた人類なので、どうしてもWhirlpoolの作品をコメディで見てしまうんですよね。

で、そういうところでも相変わらず面白いなと思います。あの会話のテンポ感、間違いなくWhirlpoolの武器。

 

最後の最後、タイトルについて触れて終わりにします。

アンレス・テルミナリア。アンレスは「〜で無ければ」で問題ないでしょう。

大事なのはテルミナリア=“terminalia“。この辺の話はwikipediaをチラ見しただけなんですが、曰くテルミナリアとはローマ神話に登場する神テルミヌスを讃える祭りらしいです。

お祭りと言えば、『礼誕祭』との関連が浮かばれますね。実際あれも神様を讃える祭りでした。

というわけでタイトルの意味は「もし神様を讃える祭りでないのなら」。礼誕祭から始まる、神様や運命に反旗を翻した祈たちを彷彿とさせるようなタイトルですね。

 

 

……で、これだけでは面白くないかと。

テルミヌスは神様ですが、特に「境界」を守る神様です。実際テルミナリアでは境界を示す石を神聖なものと考えるとか。

では、アンレス・テルミナリア本編における境界とは何か。

一つは学園、つまりサナトリウムのことではないでしょうか。ギフトなる境界石によって、それを持つものと持たないものに厳格に分けられていた世界が、神様の支配していた世界でした。

でも新世界ではギフトは無くなります。つまり、人々の間から「境界」が消えるのです。

 

別な解釈もあります。それは、人間と神様との境界です。

本来、人間界に完全なる不介入の姿勢を示していた神様ですが、物語の終盤ではついに介入してしまいます。結果、人と神との「境界」は消えてしまうのです。

あるいは生死。物語中では、おそらく魂か何かだと思いますが、それが消えて霊が現世に蔓延る展開があります。

またあるいは、過去と現在。主人公、祈にとって、彼自身の過去はしかし彼自身のものでなく、本の中の出来事にすぎなかったんです。


そして、これら全ての繋がりに、祈の『審判者』があります。

祈のギフトによって、「尊いもの」と「そうでないもの」に分かたれようとしていた世界。

でも彼らは、そんな境界がない世界を望み、手に入れた。

これこそ、アンレス・テルミナリアなる作品ではないでしょうか。

 



 

暇つぶし

 現代は暇つぶしに溢れている。

 どれもごく最近できたものばかりだ。


 そもそも昔、農耕をしていた時代、今で言う『大衆』の人々はみな毎日農作業をしていた。それも今よりずっと長い時間をかけて、大変な苦労をして。

 野生動物や病疫、悪天候には、それこそ神頼みでもしなければならない。権力を掴んだ者からは搾取をされ、逆らえば殺される。

 当時の人々に心の暇なるものは、なかなか見出せなかっただろう。


 そんな彼らの生活も『産業革命』によって大きく変化していく。

 初めに与えられたのは技術の進歩、つまり優れた道具だ。より効率的に、より大量に作物を生産することができるようになった。

 すると人々の生活には自然、隙間ができる。

 芸術や科学が発展するのは平和な時期とは良く言う。隙間のできた人々は、そこで農耕をするのでなく、より『人間らしい生活』に手を伸ばし始める。

 そうして彼らは科学的な知識を手に入れ、自らの精神面での能力を養った。知性とか論理とかいったようなもの。

 十分に能力の育った人間は、やがて集まって会社や工場となり、新たな機械を生み出していく。


 知が促進されれば技術が発展する。

 これはある意味当たり前の現実である。

 しかしその一方で、技術が発展すると知が促進されるのである。

 それはひとえに社会、あるいは人類という存在のためだ。

 


 当然のことだが、人は死んだら、死ぬ。つまり終わり。もしかすると彼は新たな生命を授かるのかもしれないし、全く別の生物に生まれ変わることもあるだろうが、そこは大した問題ではない。

 人間一人の歴史は八十年ぽっちで幕を閉じる。

 一方、人間の生きた社会は、たとえその中の数人が死のうと、生き続けている。

 つまり「社会」という人格を仮定するならば、「社会」の中で起こったダイナミックな出来事は「社会」によって記憶され、保存される。偉大な発明も残酷な戦争も、全て『史

』なる形で保存される。


 人間たった一人の生において、知の促進と技術発展のループは、しかしてそれ程大胆ではないだろう。細かく回ることはあるかもしれないが、赤ん坊の頃馬車に乗っていた人間が歳をとってリニアに乗ることもあるまい。

 だが社会なるものの生においては、そのループがより強くなる。

 遠い時空間においても優れた発明を保存して、技術革新とも呼ばれるべき発展性を見せる。技術が急成長するわけだ。

 だから、大幅な技術発展による知の促進が、社会においては可能となる。

 まさしく我らが日本のガラパゴス的文化成長は、この生存し続けた社会におけるループの現れといえるだろう。


 こうして社会は、自身の生命が続く限りループを幾度も繰り返し、住むものに知と技術を与えてきた。

 


 さて、ここで少し考えてみよう。

 知と技術のループによって発展した社会とは果たしてどういうものなのか、中に住む人間一人の暮らしはどうであるのか。


 原点に帰れば、知と技術のループには実は一つ大事な要素が含まれることが分かる。

 それが隙間、つまり『暇』だ。

 技術によって生じる暇は、知を生み出す元となる。別の言い方をするなら、技術は暇という穴を社会にこじ開け、それを埋める自浄作用として知が生まれる。


 この暇の出来かたはどうであろう。

仕事Aは、一般的な人間がやると24時間で終わるものとする。ホモサピエンスがやろうとサラリーマンがやろうと24時間だ。

 しかしある技術革新によって、この仕事Aは12時間で終わるようになった。暇な時間が12時間生まれた。

 さらに技術革新が起きて、仕事Aは6時間で終わるようになった。暇な時間は18時間へ増えた。

 この時点で察せられる。

 もし技術革新が毎度、仕事Aにかかる時間を半分にするほどのものであれば、たったの5回で余暇を23時間強も得てしまうのだ。


 無論これは例として過剰に演出したものであるけれど、しかしこの指数関数的技術革新 が、まさしく現代の「常に進化している技術」的なモデルとしてふさわしいようにも思えてしまう。

 そうでなくても、いずれにせよ、知と技術のループによって発展した社会は、ほとんど暇に溢れ、発展するたびに暇が増える社会だ。

 これが現代社会でなくて何だろうか。

 


 別に暇であることを悪いと言うわけでは無い。むしろ暇であるがゆえに知は発展するという理論を展開するならば、暇は歓迎すべきものだ。

 だが、その理論にもまた隙間がある。


 初めに話した農家の例では、暇になった農家たちは、より人間らしい生活を行うために知を求めた、ということだった。

 なぜ彼らが人間らしい生活を求めたかといえば、端的に言えば生活が人間らしくなかったからである。

 これ以上人間らしいらしくないで話すとやや厄介なので、言葉を改めよう。彼らの生活は困窮し、圧迫されていたからだ。

 生物として当然要求される大前提だが、自分たちの生命を邪魔するようなものがあれば排除する。そういう機構が働いて、暇な時間を邪魔物排除のためのお勉強タイムに当てたわけである。


 だが現代はどうだろうか。

 我々は自由を手にした。平等を手にした。

 まだまだ解決すべき問題は色々あるけれど、それでも我々大衆は、確実に十分生きていられる環境を得た。

 果たして彼らに──僕らに、暇な時間を削ってでも求めたくなるものはあるだろうか?

 


 ゆえに、現代は暇つぶしに溢れている。

 どれもごく最近できたものばかりなのだ。

なぜ現代文は難しいのか

国語、特に現代文がいかに難解であるかは、受験の時期になると毎度のように騒がれる話題である。

彼らが言うには、文章読解には個々人の多様性があるものであって、テスト問題とその解答だけで一様に定められるものではない、とか。あるいはもっと単純に、学校の授業で現代文の解き方を習わないだとか。なるほど最もな話であるように聞こえる。


そもそも、科目としての現代文とは何だろう。

数学が数・論理を学ぶ学問であり、物理や化学が現実の性質を学ぶ学問である──などと考えた時、現代文は単に「現代文を読み解く学問」であるとは結論づけ難い。

つまり「一般教養として文章を読み書きできる能力」だけではない何か、それは現代文特有であるようなもの、を見つけたい。


現代文の試験で問われるのは、筆者の主張、比喩の換言、登場人物の心情など種々多様だが、そのどれもに共通しているのは「文章中の存在である」ということだ。

現代文の問題で、文章に全く関係しない問題はまず出題されない(時折見かけるがあれはもはや現代文ではない、クイズだ)。文章中の一節を標的として、その有り様を問うのが現代文の試験である。

そしてその有り様を見抜くためには、その個体が属しているもの──すなわち文章の展開を読むことになる。イヌとは何かを考えるために、イヌの属する生物の世界でイヌを捉えるようなものだ。

そして文章の展開とは得てして一種の論理構造によって成る。悲しいから涙が出る。嬉しいから笑う。こういったものでさえ、一つの論理と見なすことができる。

まとめると、現代文の試験を解くためには、文章の論理構造を掴まねばならない……などと結論づけられるが、別に驚くような事態でもなく、塾だの予備校だので現代文を習えば必ず聞く程度の陳腐なまとめだ。


では、どうやって文章の論理構造を掴むのか。言い換えれば、文章という世界の中にある論理をどのように見つけ出せばいいのだろうか。

別の例で考えてみよう。

数学においては加法なる論理が定義されて、その上で1+2=3となる。この加法という論理はただ整数分野に収まらず、虚数や行列など数学の様々な場面で活用される。

さて、なぜ加法を考えるのだろうか。

というのはつまり、加法なる演算を定義する理由だ。どうして数学の世界に「1+2=3」という論理が存在する?


どうしても何も加法なんて当たり前の法則じゃないノ……と思いたくなるが、あえて言えば「この世界を観測する我々にとってそう考えるのが妥当だから」だろう。

当然だが、加法は現実でない。りんご二個にりんごをもう一個足したらりんごが三個。これは我々が現実世界を観測した結果、「りんご」が「2」の状態で「+1」を受けて「3」になった、という『解釈』をしている。そういう脳の構造になっているのである。

だから加法とは、我々人類がこの世界と直面した結果良さそうだと思って作ったものではあろうと思われるが、じゃあどうやってそんな良いもの思い付いちゃったのかと言われると、もはや答えようもない。


ややこんがらがりそうなので抽象的に。

要するにここで言いたいのは、論理を見つけるための論理的方法なんてあるのか、という疑問提唱であり、そして加法の例からわかる通り、それを考えるのはかなり難しい、という結論だ。

見つけるという言葉からも分かるとおり、それは実に偶発的なのである。


現代文の話に戻そう。

かの試験では、文章世界にある論理を見つけ出す、その構造を掴むことを求められている、とのことだったが、しかし上記の通りこれは実に大変、というかどだい不可能な話である。

世界がどう成り立っているかを考える論理的方法が発見されているなら、世界はとっくに解明されきっていただろう。

そしてそれを教える現代文教師たちの大変さを思いやると涙を禁じ得ない。到底不可能な職務を押し付けられているわけだ。


現代文という科目は一体何なのか。それは、論理を見つけるための技量を積む学問である。

 


以上がこの文章の最終的な結論であるが、しかしやや強引に議論を進めたところもあるので、補足を記す。

このように話すと現代文がいかにも不可能で非論理的学問に思われてしまうかもしれないが、しかし現実的にはそうではない。

というのも、扱う対象は人間の書いた文章であるからだ。

幸か不幸か、人間の書く文章なんてのはどれも似たり寄ったりのつまらないものばかりであり、そこに潜んでいる論理展開など、もうほとんど同じなのである。

だから教える側としても、その「大抵用いられているパターン」を教えてやることで、試験に向けての実力をつけてやることができる。

例えば接続詞。英語の勉強をしていると「君は文頭にandやbutを付けすぎだ」と難癖をつけられて英語の成績が下がってしまうことはよくあるが、それぐらい日本人というのは接続詞を用いたい人種なのだ。

あるいは論説文で最後に結論が来るだとか、小説では心情変化に出来事が必ず付随するだとか。

そういうことを教えれば良いのだけれど、先もいったように幸か不幸か人間の書く文章の論理構造は大抵定まってしまう。

接続詞の順接逆接などといった用い方はもちろん、場合によっては論説の基本的な書き方まで小学校で習う。最悪でも中学校で教えられる。

あと必要なことといえば、その演習と例外を学ぶこと。

そのためには文章を読まなければならない。

こう考えていくと、なるほど中学高校の現代文が文章を読む時間ばかりになってしまうのも、頷けなくはない。

彼ら彼女らの教育方法は決して手抜きなどではない。れっきとした解説なのだ。

 

 

 

 


今の現代文教育において文章読解の多様性なるものが認められているのを見ると、そこまで考えているか些か疑問であるが……。

0.999……=1

 『0.999……=1』なる式は、今や大変有名になりつつある。

 現に私自身、中学校の授業でその「証明方法」から詳しく習い、以降も度々目にする話題であった。

 ちなみに「証明方法」は多岐に渡る訳だが、私が最も好むのは級数的アプローチだ。すなわち

 a×Σr^n → a/(1-r)     (n→∞)

に対してa=9, r=1/10を代入するやり方。ストレートかつシンプルなこのアプローチには、ある種の美を感じさえする。

 さて、このように『0.999……=1』という式──9の極限式とでも名付けよう──は、その解法や思考対象に深い教育的意味を含む。ここではそこに、恐らく新しいだろう視点を持ち込みたいと思う。

 

 

 

 9の極限式を始めて見たとき、私には強い違和感があった。

 特別なものではない。両者の間には絶対に超えられない0.000……1という値があるはずだ、とかいう誰しも考えつくはずの疑問である。

 では考えてみよう。絶対の差はあるのだろうか。

 


 先に述べたように、9の極限式は正しい式だ。すなわち数学は絶対の差がないという立場を取っている……のか? 本当に?

 実際数学がどのような立場を取るのかは知ったことでないが、私の強い希望として、数学にはある立場を取っていてほしい。

 それは、『そんなもの考えなくて良い』という立場。絶対の差を考えることに意味がない、とする立場だ。

 何だそれは、ズルではないか。

 この話の流れでは、そうも思われてしまうだろう。選択肢に答えのない質問を用意しているのだから。

 しかし逆に言えば、あの疑問自体が可笑しいのだ。絶対の差を考えようとするその思考自体が、ちゃんちゃら可笑しいのだ。

 

 絶対の差を生じてしまう思考がどのようなものかというと、それはとても単純で、1から0.999……を引いた思考である。いわゆる移項の操作を行なったわけだ。

 2と3という二つの数字があり、3から2を引いてみると、1が残って、1は0では無いのだから、2と3は異なる。詳しく書けばそんな経路を踏んだはずである。

 ところでこの3から2を引くというのは、有意なのか? 例えばもしこの3が「質量3kg」で、2が「長さ2m」ならば、引き算操作はあまりに無意味だ。

 ここにあげた例は、数字の持つ単位に着目した。質量、長さ、時間、金額などなど、数字は様々な場面で単位と共に用いられ、単位の異なる数字同士を同じ軸上で考えることは、全くの無益である。

 すなわち、数字における単位とは、その数字を取り扱える軸を指定する、性質付与的な役割を受け持つ。

 ここで大事なのは、各々の数字に、思考可能な軸が存在しうるという考え方だ。多くの場合その軸は単位によって存在させられるが、別に単位以前でも数字の軸が存在することもある。

 


 9の極限式の話に戻ろう。

 1から0.999……を引くことがおかしいのは、1の軸と0.999……の軸が違うからだ。

 1は、自然数でも整数でも実数でも有理数でも、何にしたってとりあえず1という値が軸上に用意されている。

 一方0.999……はどうだろうか。この「数」を何かしらの軸上に書くことは、いくら数学が理想的になっても、難しいだろう。

 なにせ、この0.999……なる「数」、現在操作の真っ最中なのだ。

 この「数」では、無限に9を増やし続けるという作業をまず行って、それから軸上に打点するのだから、そもそも終わらない仕事を終わらせる必要がある。打点できるわけがない。

 ……わけがないのだが、実は打点できちゃう。それが、9の極限式の示すところである。

 

 本来、0.999……というのは、「無限に9を書き続けるという操作が施される」ことを意味しているだけだ。そこに何かしらの結果がなくとも、とりあえずの操作方法として存在している。

 そして素晴らしく、大変素晴らしく奇跡的なことに、その操作を行うと1が出た。

 9の極限式が示すのは、無限の捜査を用いた一通りの計算方法・計算結果のみである。当然、計算結果から計算方法を引いても仕方ない。

 2+3から1を引くことはできず、あくまで2+3が5になって、5から1を引くだけ。

 簡単に言えば、そういう話だ。

 

 

 

 なお、冒頭で私が好むと言ったアプローチは、まさしくこの無限計算の方法・結果という考えに則している。是非おすすめだ。