暇つぶし

 現代は暇つぶしに溢れている。

 どれもごく最近できたものばかりだ。


 そもそも昔、農耕をしていた時代、今で言う『大衆』の人々はみな毎日農作業をしていた。それも今よりずっと長い時間をかけて、大変な苦労をして。

 野生動物や病疫、悪天候には、それこそ神頼みでもしなければならない。権力を掴んだ者からは搾取をされ、逆らえば殺される。

 当時の人々に心の暇なるものは、なかなか見出せなかっただろう。


 そんな彼らの生活も『産業革命』によって大きく変化していく。

 初めに与えられたのは技術の進歩、つまり優れた道具だ。より効率的に、より大量に作物を生産することができるようになった。

 すると人々の生活には自然、隙間ができる。

 芸術や科学が発展するのは平和な時期とは良く言う。隙間のできた人々は、そこで農耕をするのでなく、より『人間らしい生活』に手を伸ばし始める。

 そうして彼らは科学的な知識を手に入れ、自らの精神面での能力を養った。知性とか論理とかいったようなもの。

 十分に能力の育った人間は、やがて集まって会社や工場となり、新たな機械を生み出していく。


 知が促進されれば技術が発展する。

 これはある意味当たり前の現実である。

 しかしその一方で、技術が発展すると知が促進されるのである。

 それはひとえに社会、あるいは人類という存在のためだ。

 


 当然のことだが、人は死んだら、死ぬ。つまり終わり。もしかすると彼は新たな生命を授かるのかもしれないし、全く別の生物に生まれ変わることもあるだろうが、そこは大した問題ではない。

 人間一人の歴史は八十年ぽっちで幕を閉じる。

 一方、人間の生きた社会は、たとえその中の数人が死のうと、生き続けている。

 つまり「社会」という人格を仮定するならば、「社会」の中で起こったダイナミックな出来事は「社会」によって記憶され、保存される。偉大な発明も残酷な戦争も、全て『史

』なる形で保存される。


 人間たった一人の生において、知の促進と技術発展のループは、しかしてそれ程大胆ではないだろう。細かく回ることはあるかもしれないが、赤ん坊の頃馬車に乗っていた人間が歳をとってリニアに乗ることもあるまい。

 だが社会なるものの生においては、そのループがより強くなる。

 遠い時空間においても優れた発明を保存して、技術革新とも呼ばれるべき発展性を見せる。技術が急成長するわけだ。

 だから、大幅な技術発展による知の促進が、社会においては可能となる。

 まさしく我らが日本のガラパゴス的文化成長は、この生存し続けた社会におけるループの現れといえるだろう。


 こうして社会は、自身の生命が続く限りループを幾度も繰り返し、住むものに知と技術を与えてきた。

 


 さて、ここで少し考えてみよう。

 知と技術のループによって発展した社会とは果たしてどういうものなのか、中に住む人間一人の暮らしはどうであるのか。


 原点に帰れば、知と技術のループには実は一つ大事な要素が含まれることが分かる。

 それが隙間、つまり『暇』だ。

 技術によって生じる暇は、知を生み出す元となる。別の言い方をするなら、技術は暇という穴を社会にこじ開け、それを埋める自浄作用として知が生まれる。


 この暇の出来かたはどうであろう。

仕事Aは、一般的な人間がやると24時間で終わるものとする。ホモサピエンスがやろうとサラリーマンがやろうと24時間だ。

 しかしある技術革新によって、この仕事Aは12時間で終わるようになった。暇な時間が12時間生まれた。

 さらに技術革新が起きて、仕事Aは6時間で終わるようになった。暇な時間は18時間へ増えた。

 この時点で察せられる。

 もし技術革新が毎度、仕事Aにかかる時間を半分にするほどのものであれば、たったの5回で余暇を23時間強も得てしまうのだ。


 無論これは例として過剰に演出したものであるけれど、しかしこの指数関数的技術革新 が、まさしく現代の「常に進化している技術」的なモデルとしてふさわしいようにも思えてしまう。

 そうでなくても、いずれにせよ、知と技術のループによって発展した社会は、ほとんど暇に溢れ、発展するたびに暇が増える社会だ。

 これが現代社会でなくて何だろうか。

 


 別に暇であることを悪いと言うわけでは無い。むしろ暇であるがゆえに知は発展するという理論を展開するならば、暇は歓迎すべきものだ。

 だが、その理論にもまた隙間がある。


 初めに話した農家の例では、暇になった農家たちは、より人間らしい生活を行うために知を求めた、ということだった。

 なぜ彼らが人間らしい生活を求めたかといえば、端的に言えば生活が人間らしくなかったからである。

 これ以上人間らしいらしくないで話すとやや厄介なので、言葉を改めよう。彼らの生活は困窮し、圧迫されていたからだ。

 生物として当然要求される大前提だが、自分たちの生命を邪魔するようなものがあれば排除する。そういう機構が働いて、暇な時間を邪魔物排除のためのお勉強タイムに当てたわけである。


 だが現代はどうだろうか。

 我々は自由を手にした。平等を手にした。

 まだまだ解決すべき問題は色々あるけれど、それでも我々大衆は、確実に十分生きていられる環境を得た。

 果たして彼らに──僕らに、暇な時間を削ってでも求めたくなるものはあるだろうか?

 


 ゆえに、現代は暇つぶしに溢れている。

 どれもごく最近できたものばかりなのだ。