なぜ現代文は難しいのか

国語、特に現代文がいかに難解であるかは、受験の時期になると毎度のように騒がれる話題である。

彼らが言うには、文章読解には個々人の多様性があるものであって、テスト問題とその解答だけで一様に定められるものではない、とか。あるいはもっと単純に、学校の授業で現代文の解き方を習わないだとか。なるほど最もな話であるように聞こえる。


そもそも、科目としての現代文とは何だろう。

数学が数・論理を学ぶ学問であり、物理や化学が現実の性質を学ぶ学問である──などと考えた時、現代文は単に「現代文を読み解く学問」であるとは結論づけ難い。

つまり「一般教養として文章を読み書きできる能力」だけではない何か、それは現代文特有であるようなもの、を見つけたい。


現代文の試験で問われるのは、筆者の主張、比喩の換言、登場人物の心情など種々多様だが、そのどれもに共通しているのは「文章中の存在である」ということだ。

現代文の問題で、文章に全く関係しない問題はまず出題されない(時折見かけるがあれはもはや現代文ではない、クイズだ)。文章中の一節を標的として、その有り様を問うのが現代文の試験である。

そしてその有り様を見抜くためには、その個体が属しているもの──すなわち文章の展開を読むことになる。イヌとは何かを考えるために、イヌの属する生物の世界でイヌを捉えるようなものだ。

そして文章の展開とは得てして一種の論理構造によって成る。悲しいから涙が出る。嬉しいから笑う。こういったものでさえ、一つの論理と見なすことができる。

まとめると、現代文の試験を解くためには、文章の論理構造を掴まねばならない……などと結論づけられるが、別に驚くような事態でもなく、塾だの予備校だので現代文を習えば必ず聞く程度の陳腐なまとめだ。


では、どうやって文章の論理構造を掴むのか。言い換えれば、文章という世界の中にある論理をどのように見つけ出せばいいのだろうか。

別の例で考えてみよう。

数学においては加法なる論理が定義されて、その上で1+2=3となる。この加法という論理はただ整数分野に収まらず、虚数や行列など数学の様々な場面で活用される。

さて、なぜ加法を考えるのだろうか。

というのはつまり、加法なる演算を定義する理由だ。どうして数学の世界に「1+2=3」という論理が存在する?


どうしても何も加法なんて当たり前の法則じゃないノ……と思いたくなるが、あえて言えば「この世界を観測する我々にとってそう考えるのが妥当だから」だろう。

当然だが、加法は現実でない。りんご二個にりんごをもう一個足したらりんごが三個。これは我々が現実世界を観測した結果、「りんご」が「2」の状態で「+1」を受けて「3」になった、という『解釈』をしている。そういう脳の構造になっているのである。

だから加法とは、我々人類がこの世界と直面した結果良さそうだと思って作ったものではあろうと思われるが、じゃあどうやってそんな良いもの思い付いちゃったのかと言われると、もはや答えようもない。


ややこんがらがりそうなので抽象的に。

要するにここで言いたいのは、論理を見つけるための論理的方法なんてあるのか、という疑問提唱であり、そして加法の例からわかる通り、それを考えるのはかなり難しい、という結論だ。

見つけるという言葉からも分かるとおり、それは実に偶発的なのである。


現代文の話に戻そう。

かの試験では、文章世界にある論理を見つけ出す、その構造を掴むことを求められている、とのことだったが、しかし上記の通りこれは実に大変、というかどだい不可能な話である。

世界がどう成り立っているかを考える論理的方法が発見されているなら、世界はとっくに解明されきっていただろう。

そしてそれを教える現代文教師たちの大変さを思いやると涙を禁じ得ない。到底不可能な職務を押し付けられているわけだ。


現代文という科目は一体何なのか。それは、論理を見つけるための技量を積む学問である。

 


以上がこの文章の最終的な結論であるが、しかしやや強引に議論を進めたところもあるので、補足を記す。

このように話すと現代文がいかにも不可能で非論理的学問に思われてしまうかもしれないが、しかし現実的にはそうではない。

というのも、扱う対象は人間の書いた文章であるからだ。

幸か不幸か、人間の書く文章なんてのはどれも似たり寄ったりのつまらないものばかりであり、そこに潜んでいる論理展開など、もうほとんど同じなのである。

だから教える側としても、その「大抵用いられているパターン」を教えてやることで、試験に向けての実力をつけてやることができる。

例えば接続詞。英語の勉強をしていると「君は文頭にandやbutを付けすぎだ」と難癖をつけられて英語の成績が下がってしまうことはよくあるが、それぐらい日本人というのは接続詞を用いたい人種なのだ。

あるいは論説文で最後に結論が来るだとか、小説では心情変化に出来事が必ず付随するだとか。

そういうことを教えれば良いのだけれど、先もいったように幸か不幸か人間の書く文章の論理構造は大抵定まってしまう。

接続詞の順接逆接などといった用い方はもちろん、場合によっては論説の基本的な書き方まで小学校で習う。最悪でも中学校で教えられる。

あと必要なことといえば、その演習と例外を学ぶこと。

そのためには文章を読まなければならない。

こう考えていくと、なるほど中学高校の現代文が文章を読む時間ばかりになってしまうのも、頷けなくはない。

彼ら彼女らの教育方法は決して手抜きなどではない。れっきとした解説なのだ。

 

 

 

 


今の現代文教育において文章読解の多様性なるものが認められているのを見ると、そこまで考えているか些か疑問であるが……。