0.999……=1

 『0.999……=1』なる式は、今や大変有名になりつつある。

 現に私自身、中学校の授業でその「証明方法」から詳しく習い、以降も度々目にする話題であった。

 ちなみに「証明方法」は多岐に渡る訳だが、私が最も好むのは級数的アプローチだ。すなわち

 a×Σr^n → a/(1-r)     (n→∞)

に対してa=9, r=1/10を代入するやり方。ストレートかつシンプルなこのアプローチには、ある種の美を感じさえする。

 さて、このように『0.999……=1』という式──9の極限式とでも名付けよう──は、その解法や思考対象に深い教育的意味を含む。ここではそこに、恐らく新しいだろう視点を持ち込みたいと思う。

 

 

 

 9の極限式を始めて見たとき、私には強い違和感があった。

 特別なものではない。両者の間には絶対に超えられない0.000……1という値があるはずだ、とかいう誰しも考えつくはずの疑問である。

 では考えてみよう。絶対の差はあるのだろうか。

 


 先に述べたように、9の極限式は正しい式だ。すなわち数学は絶対の差がないという立場を取っている……のか? 本当に?

 実際数学がどのような立場を取るのかは知ったことでないが、私の強い希望として、数学にはある立場を取っていてほしい。

 それは、『そんなもの考えなくて良い』という立場。絶対の差を考えることに意味がない、とする立場だ。

 何だそれは、ズルではないか。

 この話の流れでは、そうも思われてしまうだろう。選択肢に答えのない質問を用意しているのだから。

 しかし逆に言えば、あの疑問自体が可笑しいのだ。絶対の差を考えようとするその思考自体が、ちゃんちゃら可笑しいのだ。

 

 絶対の差を生じてしまう思考がどのようなものかというと、それはとても単純で、1から0.999……を引いた思考である。いわゆる移項の操作を行なったわけだ。

 2と3という二つの数字があり、3から2を引いてみると、1が残って、1は0では無いのだから、2と3は異なる。詳しく書けばそんな経路を踏んだはずである。

 ところでこの3から2を引くというのは、有意なのか? 例えばもしこの3が「質量3kg」で、2が「長さ2m」ならば、引き算操作はあまりに無意味だ。

 ここにあげた例は、数字の持つ単位に着目した。質量、長さ、時間、金額などなど、数字は様々な場面で単位と共に用いられ、単位の異なる数字同士を同じ軸上で考えることは、全くの無益である。

 すなわち、数字における単位とは、その数字を取り扱える軸を指定する、性質付与的な役割を受け持つ。

 ここで大事なのは、各々の数字に、思考可能な軸が存在しうるという考え方だ。多くの場合その軸は単位によって存在させられるが、別に単位以前でも数字の軸が存在することもある。

 


 9の極限式の話に戻ろう。

 1から0.999……を引くことがおかしいのは、1の軸と0.999……の軸が違うからだ。

 1は、自然数でも整数でも実数でも有理数でも、何にしたってとりあえず1という値が軸上に用意されている。

 一方0.999……はどうだろうか。この「数」を何かしらの軸上に書くことは、いくら数学が理想的になっても、難しいだろう。

 なにせ、この0.999……なる「数」、現在操作の真っ最中なのだ。

 この「数」では、無限に9を増やし続けるという作業をまず行って、それから軸上に打点するのだから、そもそも終わらない仕事を終わらせる必要がある。打点できるわけがない。

 ……わけがないのだが、実は打点できちゃう。それが、9の極限式の示すところである。

 

 本来、0.999……というのは、「無限に9を書き続けるという操作が施される」ことを意味しているだけだ。そこに何かしらの結果がなくとも、とりあえずの操作方法として存在している。

 そして素晴らしく、大変素晴らしく奇跡的なことに、その操作を行うと1が出た。

 9の極限式が示すのは、無限の捜査を用いた一通りの計算方法・計算結果のみである。当然、計算結果から計算方法を引いても仕方ない。

 2+3から1を引くことはできず、あくまで2+3が5になって、5から1を引くだけ。

 簡単に言えば、そういう話だ。

 

 

 

 なお、冒頭で私が好むと言ったアプローチは、まさしくこの無限計算の方法・結果という考えに則している。是非おすすめだ。