勉強は役に立たない

 かの天才フリードリヒ・ガウスは、こんな言葉を残したという。

『知識ではなく学ぶという行為こそが、至上の喜びを与えてくれる』

 


 近年、と言ってもさほど近年に限ることでもないが、「勉強は役に立たない」という概念がよく提唱される。

 それに対する反応は好悪あれど、しかし丸っきり批判されることはない。何故か。

 事実として、勉強は役に立たないからだ。


 例えば小学校の算数時点で、三角形の面積なんぞを求めさせられるが、そんなものを将来使う予定は大抵の人にとって無いだろう。

 かく言う自分自身としても、中学理科で習った地学の知識を使う場面は今後訪れないと考えている。


 勉強は役に立たない。

 少なくとも現代社会で、学校のお勉強を知識として所持することはあまりにつまらない。

 ただ、それに至る過程はどうだろう。

 


 勉学にせよ何にせよ『それに集中して取り組む』という意味合いで「浸かる」という表現をされることは多々あるが、実のところこれは非常に良い表現なのだ。

 浸かる。まさしく学徒たちは、勉学という海に浸かっているのである。

 そしてそれはどこか、子が母の胎に包まれることにすら似ている。


 勉学というのには様々な定義があるだろうが、間違いなく言えるのは、勉学それ自体が目的を持っている。

 数学なら概念を組み立てることであり、理学なら世界を解き明かすことである。

 そしてそれに浸る人間は、ただその目的に従えば良い。逆に言えば、それに従えない人間は学問が出来ない。

 いわば一つの意思を持った体としての学問に、我々は運命諸共全て任せて、どこまでも広がる海面上をずうっと漂っている。

 我々は、勉学に抱かれている。


 もう少し議論を進めると、この母胎への回帰とでも言うべき行為は、大地への回帰とも読み替えたい。

 人は学問に浸かることで、野生を取り戻すのだ。

 矛盾していると思うだろうか? だがそれは、学問に対する先入観のためだろう。

 確かに勉強すればするほど、論理性や思考力といった人間的な力が身につくのやもしれない。しかしそれは、結果だ。

 その過程にあるものは、つまり論理を扱う力を得るために行う訓練は、既に存在する偉大な法に身を任せて揺蕩う、いわば帰依だ。

 学問の海に身を包まれる瞬間、私は一動物として論理を追い、論理に喰われ、論理を喰う。何故かだなんて理由も必要ない。そこでは、そうするものなのである。


 なので、論理なるものは動物である人間が人間である証左であって、そしてそういう意味合いで論理を追及する学問は社会で役に立たない。

 社会の中で、人間は人間であって、動物では決して無いのだから。